しばらく通信を書かない間に、季節はすっかり冬になってしまいました。さて、だいぶ日にちがあいてしまいましたが、この通信を再開したいと思います。
ごみ問題。この問題の根深さを私たちはどのように考えればよいのでしょうか?大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄のサイクルの中で、私たちはごみに囲まれて暮らしています。ごみ問題が身近な私たちの生活とかかわっていることも確かです。しかし、個人個人がごみを出さないようにしよう、という意識だけでは、そこに大きな壁が立ちはだかります。私たちは、ものを買うたびにごみを買わされている。欲しくもないごみがついてきてしまうのです。ごみ問題を考えるときに重要なこととは、この消費社会の仕組みをきちんと循環するように作り変える、個人から社会を網羅したその視点と発想が大切になってきます。
一番よい方法は、発生抑制をすることです。企業が生産する過程で、ごみになるものを使用しない。作り出す製品すべては、きちんと資源循環するものだけを使用すれば、ごみの大部分を減らすことができます。私たち消費者は、選択肢がなくて、ごみを買わされているのであれば、自分たちからごみを売りつけられない仕組みを考えることが必要です。私たち消費者が生産過程の監視を強めることによって、企業側に圧力をかけることも可能なのです。
たとえば、お店をやっている人、イベントを企画する人が、商品を販売する際に、生産過程でごみにならないような商品を作っているものを積極的に販売する、ある程度の規模のイベントならば、地域のそういった循環商品に対して、独自の認証マークを作り、積極的に応援していく、というように、身近なところからはじめることもできます。
発生抑制に比べると循環の理念は低くなりますが、排出抑制という考え方もあります。この際、気をつけなければいけないことは、リサイクルとリユースの違いです。
リサイクルには大きな幻想があります。私たちが何気なく環境にやさしいと思い込んで分別しているペットボトルは、そのリサイクルの過程で環境に負荷をかけている現実があるのです。
ペットボトルを粉砕すれば、有害物質が飛び散ります。洗浄のためには大量に水が必要ですし、溶融する際には化石エネルギーを使用します。もちろん、現実的には紙やプラッシック類はリサイクルする形を大部分で取らざるを得ませんが、本来、循環的な見地に立つのであれば、ペットボトルよりもビン、といったように、リユースできるものを積極的に消費することが大切です。
また、排出抑制という考えは、ごみをごみとしてではなく、資源として考えることが命綱となってきます。しかし、そのためには、資源化のための徹底した分別が大切になります。ごみのゼロウエスト宣言で有名な
上勝町では、資源化のために34分別を行っています。みなさんの街ではいかがでしょうか?ちなみに私の住む町の衛生事業組合では、現在大部分のプラスチックを燃やしています。そのため焼却炉の温度が高くなりすぎて、生ごみを燃やさなければ炉がもたないとのことだそうです。
とにかくごみを出さないために大切なことは、1.ごみにならないものを選択して買うこと。2.余計なごみを買い続けなくてもいいような身近なこと(マイ箸やマイバック)をはじめてみること。3.自分の住む地域のごみの行方を知ること。4.自分が買うものの生産過程の背景を知ること。
ごみ問題を知れば知るほど、私たちの暮らしを成り立たせるために、どれだけ自然(
南の国の人々の暮らしもそうです)から収奪し、それを廃棄するときにどれだけ自然(廃棄される土地に住む人の暮らしもそうです)に負荷をかけているのか、便利さの陰に隠されている現実に恐ろしくなります。わたしはこの灰溶融炉問題と出会い、さまざまな背景を知るにつれて、最近のエコやロハスといったやさしい側面だけではなく、今の社会の仕組みが隠し続けている現実に目を向けることなしに、私たちの社会はきっと立ち行かなくなる、子どもたちの世代は成り立たなくなってしまう気がしています。
しかし、これだけを述べたところで、このごみ問題を含んだ、消費社会の問題の深刻さは伝わらないかもしれません。次回は、富士見町休戸・花場地区に建設が予定されている灰溶融炉問題を通して見えてきた、日本の状況に共通する、きれいに隠されたとんでもない現状についてお話を進めていきたいと思っています。
ものがどのようにして生まれ、どのようにして廃棄されていくのか。仕事でその生産の場面に立ち会っている人も、広告流通の場面に立ち会っている人も、小売りの場面に立ち会っている人も、そういった産業から何らかの資金援助を受けている会社にいる人も、消費する立場にいる人も、あるいは資産を運用するためにこのような産業の力を借りている人も、現代社会に生きるほとんどすべての人はそのことを気にするよりも、自分の仕事のため、自分の生活のため、いかに効率よく、いかに消費されるか、いかに安くてよいものを購入するか、そのことをメインに考えています。逆に言うと、この仕組みにからめとられてしまわざるを得ないのです。この自家中毒の一連の流れは、自然への大きな負担や自分の知らない地域で負担を押し付けられている現実のもとに成り立っていることを、わたしたちは、もういい加減知るべきなのかもしれません。その背景を知ったときに、いったいわたしたちはどうすればいいのか。この通信がそういった小さな行動の契機になればと思っています。